北陸(石川県、富山県、福井県)を中心に、マイナーな史跡、歴史スポットを紹介する。
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1179年(治承3)平清盛がクーデターを企て後白河法皇を幽閉。
遂に怒りを爆発させた後白河法皇の第三王子「以仁王(もちひとおう)」が、1180年(治承4)平氏追討の令旨を全国に発令。
自ら挙兵するも、平氏方に敗戦を喫しこの世を去る。
しかし、この以仁王にも五人の王子が存在した。
その一人が「北陸宮(ほくろくのみや)」である。
以仁王が戦死したものの、関東の源頼朝、北陸の源義仲(木曽義仲)には、平氏追討の意志が伝わった。
いち早く呼応したのは、信濃の「木曽義仲」であった。
義仲は、幼い以仁王の第一王子「北陸宮」を担ぎ出し挙兵。
横田河原の戦いにて越後の平氏勢力を破り、北国街道(現在の旧北陸道)を西へ進撃を開始する。
1180年(治承3)平家一族の「平維盛」と東国の源氏軍との間で富士川の戦いが起きる。
結果、平維盛は大敗を喫するが、1181年(養和元)平清盛の死後、墨俣川の戦いの勝利で再び大将軍となり北陸の木曽義仲征伐に向かう。
維盛は、津幡・倶利伽羅山中の猿ヶ馬場(さるがばば)に本陣を敷いたのは、1183(寿永2)のことである。
1183(寿永2)10月、平維盛が、津幡の倶利伽羅山中・猿ヶ馬場に本陣を敷いたと同じころ、越中方面から加賀方面に進軍する源氏方の木曽義仲は、埴生護国八幡宮(埴生八幡)(はにゅうはちまん)で戦勝祈願を行い、決戦の準備を整えた。
倶利伽羅峠の戦い前夜である。
寝静まった平氏軍に、木曽義仲率いる源氏軍が夜襲を開始。
数の上で優っていた維盛は油断をしていた。
浮足立った平氏軍は倶利伽羅峠の断崖に追いつめられる。
そこで、義仲が用意していた角に松明をつけた牛が突進。
世にいう、倶利伽羅合戦名物「火牛の計」である。
平氏軍は、断崖絶壁に突き落とされ、何とか難を逃れた兵も西に向かって敗走を始めた。
現在、「火牛の計」モニュメントは、倶利伽羅古戦場に設置されている。
平家軍を破った木曽義仲は、津幡の「王城」に暫く逗留した後、堅田、加賀を経由し京へ兵を進める。
1573年(天正元)、越前の朝倉義景を討った織田信長。
1574年(天正3)には、柴田勝家を大将に、前田利家・佐々成政・不破光治などを越前に派遣し、越前の一向宗を殲滅。
(詳細は、越前戦国物語を参照)
その後、10年以上も続いた本願寺との戦い「石山合戦」に終止符をうつため、大軍にて本願寺を攻撃。
1580年(天正8)、長期にわたり抵抗を続けた本願寺の法主「顕如」であったが、大阪退去を条件に降伏。
信長と一向宗の戦いは、事実上の旗頭である本願寺顕如の降伏により幕引きと思われた。
しかし、信長と一向宗の戦いは、それでは終わらなかった。
本願寺顕如の降伏後も、長男「教如」が信長に抵抗を続けた。
これが、後に浄土真宗の分裂、真宗大谷派の誕生に繋がるわけであるが、北陸においても加賀、能登、越中各地にて一向宗が抵抗を続けた。
北陸一向宗の拠点としては、金沢の尾山御坊、北加賀の
の鳥越弘願寺(現在の津幡町)、そして、最後の一揆勢力となる鳥越城(現在の白山市)など。
1580年(天正8)も年末、尾山御坊、鳥越弘願寺が陥落。
1581年(天正9)、ついに最後の砦、鳥越城も落城。
これにて信長による一向宗の殲滅作戦が事実上終結する。